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30歳からの海外留学
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00/10/04
●私が20代だった頃 ●30代でこそ行くべき!





●両親とのカナダ旅行

出発半年前に心筋梗塞で倒れた父は、その後、順調に回復し、私は父の元気な笑顔で送り出してもらえた。

カナダに来てからはホームステイをしていたので、そうそう日本に電話をするわけにはいかなかった。家族も遠慮していた。
4カ月間たった後、私はアパートで一人暮しを始めた。金銭面を考えるとシェアの方が経済的だったが、最終的にはここで一人暮しをしてみたかったし、シェアはいろいろと難しそうだったので、無駄な回り道をせずに一人で住むことにした。住みたいエリアを何日もかけて足で探した結果、ちょうどいいバチェラー・スイートが見つかった。部屋代も手頃だった。

引っ越してさっそく購入したのが、FAX付きの電話器だ。電話をするとついつい長話をしてしまうので、家への連絡はなるべくFAXを使うようにした。これで電話代はかなり節約できた。
それでも書いてくるのはもっぱら妹なので、やはり時には電話して、両親の声を聞き、私の元気な様子も知らせた。

まだホームステイをしている時に、姉が遊びに来た。妹は以前一緒に旅行していたので、カナダを知っていた。
私は、自分がカナダにいるうちに、どうしても両親に来てほしいと思うようになった。ここでの生活を見てもらいたかったし、私が好きで住みたいと思ってやって来たカナダという国を知ってもらいたかったからだ。それに、両親とも元気なうちに2人で海外旅行を楽しんでもらいたかった。父は結構出歩いていたが、母はまだ1度しか海外に行ったことがなかった。

その年の年末頃からラブコールを送り続け、翌年の6月に、ついに両親がカナダに来ることになった。私は張り切ってプランをたてた。
年齢を考えると西部だけにしたほうが体力的にラクだと思ったが、将来2度目のカナダ旅行があるとは考えにくかったので、できれば今回ですべてを見せたかった。無理を言って、ナイアガラまで足をのばしてもらうことにした。その分、日程をゆったり取ったら、全部で2週間の旅行になってしまった。
実家が自営業のため、両親がいない間は妹が一人で切り盛りしなければならないが、例によって「大丈夫!」という頼もしい答えだった。

知り合いの旅行会社に頼み、国内便とホテルの手配をしてもらった。私にとっては渡加以来初めての大きな出費だったが、その後にどんな貧困生活をおくってもいいと思っていた。なるべく居心地のいいホテルに泊めてあげたかった。バンクーバーでは私のアパートに泊まれる分、宿泊費が節約できた。

両親にはまず直行便でトロントに来てもらった。先に遠くまで来てしまって、戻っていくという旅程のほうがラクだったからだ。
トロントとナイアガラ観光をした後、バンクーバーへ。滞在中にお世話になっている方々へ紹介し、1日観光でビクトリアへ行き、その後カナディアン・ロッキーへ‥‥。
初めて見るカナダは、どこもかしこも感動の連続だったようだ。

私にとっても一生の思い出となる旅だった。小さい頃からよく家族旅行をしていたが、両親と3人の旅行は初めてだった。父と母それぞれの今まで気付かなかった面も、いろいろ発見できた。
直前に思いついて友人からビデオカメラを借りていた私は、旅行中、ガイドと通訳とカメラマンとビデオカメラマンに徹していた。いろいろハプニングもあったが、楽しい旅だった。

ただ一つ気になったのは、父の片腕が上がらなくなっていたことだ。リューマチだった。家系的には母方のほうがリューマチ体質だったので、病院で診断された時は「なんで俺が?」と不審がっていたらしい。特に右腕がひどく、シャワーを浴びるのにも難儀していた。
しかし、血圧と心臓のほうは安定していて、旅行中も動悸がするようなことはなかった。

両親にとっても楽しい旅行だったようだ。それに私の生活の様子を見て、安心したらしい。
バンクーバーにいる間、父は毎朝、タバコを吸いに外へ出て(アパートは禁煙なので)1ブロックずつ散歩していた。そして「ここの商店街はなかなか面白いなぁ」と言っていた。その表現が何とも日本的でおかしかった。実家も商店街にあるのだ。同じ様な環境と思って、安心していたのかもしれない。

いよいよ両親が帰る日。バンクーバー空港のゲート前で、両親が手を振るところまで撮影し、ビデオテープを出して父に渡した。実は昨夜、2人が寝てからこっそり撮影した私からのメッセージが、そのテープに入っていたのである。それは、今回の旅のお礼と、これからも元気でというここと、次回は日本とカナダの中間のハワイで合流しようね!というものだった。

別れる時、カナダ流だとハグをするのだが、さすがに両親には照れ臭くてできず、言葉だけにした。
すると、意外なことに、父が「じゃあ、がんばれよ」と言って握手を求めてきた。驚いた。父と握手したのは、その時が生まれて初めてだった。

ガマンしてガマンして、両親の姿がゲート入口の向こうに小さくなった時、初めて涙がどっと溢れてきた。
・・・しばらく止まらなかった。

●父のその後

両親にバンクーバーとカナダを見てもらえたことで、その後の電話はずいぶん変わった。共通に思い浮かべられるものがあると、会話もはずむ。できた写真を送りあったりして、しばらくは旅行の余韻にひたった。

秋も深まる頃になると、父のリューマチがひどくなっているらしいことが分かった。我慢強い人なので、あまり口には出さないようだったが、足も痛んでいる様子だった。そのため、好きで続けていた水泳教室にも通えなくなってしまった。
そのことが、父の体力を衰えさせた。

翌年5月、3人でのカナダ旅行から11カ月目。
2度目の心筋梗塞に、父の心臓は耐えられなかった。